宮崎市天ケ城歴史民俗資料館

企画展

宮崎市天ケ城歴史民俗資料館開館25周年記念企画展「谷村計介 ~地方から見た西南戦争~」展 

国立国会図書館デジタルアーカイブ

 

「谷村計介」という名前を聞いて、みなさんはどのような人物を想像しますでしょうか?

1853年、ペリーが浦賀に来航して開国を要求するという緊迫したこの年に、薩摩藩領倉岡郷(現在の宮崎市倉岡)に坂元家の二男として生まれました。4歳のころに谷村家の養子となり、谷村姓を名乗ります。

計介は学問や兵学を熱心に修め、いつか自分も戦いの前線に立つことを夢みていました。元号が明治に改まり、明治5年(1872)に明治政府の陸軍軍人として入隊します。

計介は鎮西鎮台(のちの熊本鎮台)に所属しますが、大きな転機となったのが江藤新平を中心として勃発した「佐賀の乱」(1874年)です。自分の身の危険を覚悟して味方の軍を援護した功績が認められ、伍長に昇進します。

その後、台湾出兵(1876年)や神風連の変(1876年)でもその実直な働きぶりが将校たちの目に留まっていきます。明治政府の改革に不満を持つ士族たちが不満を爆発させ、いよいよ現時点では最後の内戦といわれる西南戦争(1877年)が鹿児島・熊本・大分・宮崎で始まります。そして、計介は官軍兵士として従軍します。

おそらく計介の人生でもっとも過酷な命令が下されます。計介の所属する部隊は熊本城籠城戦に応戦していました。籠城は戦いの場でもあり、生活の場でもありました。しかし、いつ終わるか分からない籠城戦は肉体的にも精神的にも疲弊します。食糧や弾薬などの不足、負傷者の手当てなど、戦争と生活が同時並行して進みます。戦う側も、支える側もそれぞれの立場で戦っていたのです。

そんな熊本城籠城の様子を官軍本営に伝えるべく、熊本鎮台司令長官 谷干城は計介にある使命を託します。それは、船隈(現 玉名市)の官軍本営への伝令というものでした。本営までの道のりは薩軍兵士が目を光らせており、大変厳しいものでした。計介は2度の捕縛を経験しましたが、誰もそのときは「官軍兵士 伍長 谷村計介」とは思わなかったようです。

あるときは「百姓」、またあるときは「豆腐屋の息子」と称し、ついには官軍本営にたどり着きます。野津鎮雄少佐の前に立ったときはつい涙を流したと言われています。その勇敢な忠義の心はのちに「軍人亀鑑」として軍人の手本になるのです。

明治10年3月4日、西南戦争最大の決戦のひとつである「田原坂の戦い」が始まります。薩軍は高台から、官軍は平地からの攻撃をそれぞれに仕掛けていきますが、戦いを知っている薩軍が優勢となります。次々と薩軍の銃弾に倒れる官軍兵士たちをみて、計介は感情が高ぶったのでしょう・・・倒れた兵士の銃を持ち、薩軍に向かっていくのです。ですが、薩軍が見逃すはずもありません。四方八方から計介目がけて銃撃を始め、ついに計介は倒れます。田原坂の戦い初日、計介は25歳の若さでこの世を去ります。

計介に関する資料が大変少ないがゆえに、あまり周知されなかった計介の生涯にスポットを当てています。さらに、倉岡周辺での動向や、計介が関わった熊本籠城戦と田原坂の戦いについてもご紹介します。今回は宮崎県総合博物館より「谷村計介直筆書状」、熊本城調査研究センターより熊本城籠城時の発掘調査出土品(軍事資料、生活用品、筆記具など)など大変貴重な資料をお借りし、展示することが叶いました。

この企画展をきっかけに、宮崎市出身のもう1人の「偉人」を知っていただけたら幸いです。

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